◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(九)

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(九)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、綾戸国中神社(京都市南区久世上久世町446)

綾戸国中神社は、昔は綾戸(あやと)宮と国中(くなか)宮の二社に別れていたが、現在は一社殿とし、向かって左の御扉に綾戸宮、右の御扉に国中宮を祀る。御祭神は、綾戸宮が大綾津日神(おほあやつひのかみ)・大直日神(おほなほびのかみ)・神直日神(かみなほびのかみ)で、国中宮がスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)である。

大綾津日神、大直日神、神直日神を御祭神とする綾戸宮は、第二十六代継体天皇十五年に綾戸大明神として三柱の神を勧請され、六十二代村上天皇天暦九年に綾戸宮と改められ、上久世の里の産土神として古くより氏子が崇拝してきた。

スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)を御祭神とする国中宮は、神代の頃、午頭天皇(ごずてんのう)=スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水と化した時、天から降り、水を切り流し国となし、その中心に符を遣わしたとされてる。

その符とはスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の愛馬「天幸駒」の頭を自ら彫刻して、新羅に渡海の前にスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の形見として遣わしたとされた。この形見の馬の頭(駒形)が国中宮の御神体として祀られている。

夏の祇園祭には稚児が駒形の御神体を胸に奉持して(久世駒形稚児)乗馬で供奉する。七月十三日:稚児社参祈願(祇園祭社参祈願祭)、七月十七日:稚児供奉祈願(祇園祭神幸祭供奉祈願祭)、七月二十四日:稚児供奉祈願(祇園祭還幸祭供奉祈願祭)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、綾戸国中神社は高句麗系か?

山城国の乙訓郡大山崎の南部に高句麗系の移住民らが開発したといわれる「高麗田」がある。彼らが淀川を船で溯って山崎津に上陸しこの土地を開墾したのがその由来とされている。近くの天王山中腹の大念寺の過去帳には、高麗屋の屋号の遺名が散見する。

天王山の中腹には橘氏の氏神を祀る酒解神社(自玉手祭来酒解神社=たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ、乙訓地方で最も古い神社、祭神:山崎神・橘氏の主神)があり、その後「天神八王子社」(祭神:大山祇神、素戔鳴尊、他九神)が祀られて「山崎天王社」と称され、山崎山と称されていたこの山も「天王山」と呼称されるようになったそうだ。

高句麗系の移住民らが奈羅(現在の八幡町上奈良、下奈良)に定住、繁栄した(高麗田の対岸)そうである。樫原廃寺の東南に位置する、南区久世上久世町の綾戸国中神社の祭神はスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)=牛頭天王だ。

いまも祇園祭では綾戸国中神社の駒形稚児(駒形=馬の頭、駒=高麗?)が祇園社・八坂神社(高句麗系の八坂造の創建?、祭神:牛頭天王=素盞嗚尊)(※注1)に乗り入れ、神前に参拝して初めて神輿の渡御がはじまる慣例になっている。このことは、綾戸国中宮神社の周辺にも多くの高句麗系の移住民が居住していたとも考えられるのだが?

(※注1) 八坂の地の八坂郷については、『新撰姓氏録』の山城国諸蕃(渡来人)条に「八坂造(やさかのみやつこ)は狛(こま)国人の留川麻乃意利佐(るかまのおりさ)より出づるなり」と記され、当地には狛=高麗(こま・高句麗)から渡来した人々が「八坂造」となり、勢力を張っていたとみられている。

八坂神社の社伝によると、斉明天皇二年(六五六)高麗の調度副使伊利之使主(いりしおみ)の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔鳴尊を祀ったことに始まると伝えている。伊利之(いりの)は『新撰姓氏禄』によると八坂造の祖だ。このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔鳴尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。

Share
Posted in 日本神話の魅力, 神社の魅力, 祭りの魅力 | Leave a comment

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(八)

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(八)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の和御魂と荒御魂の合体

八坂神社に普段鎮座している、スサノオ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)は和御魂(にぎみたま)で、神のやさしい穏やかな面を持つ神とされている。久世駒形稚児(※注1)が送り出す上久世の綾戸国中神社(あやとくなかじんじゃ)(※注2)の祭神も、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)であるが、その荒御魂(あらみたま)と言って同じ神でも荒々しい烈しい面を持つ神といわれている。

一年に一度その両方の神様がお会いになり、一つにならないと(合体しないと)祇園祭は成立しないといわれている。祭りの要となる重要な役割として、長い間上久世の地で受け継がれてきた。稚児には綾戸国中神社の氏子のなかの、八歳から十一歳の男子を対象として選ばれる。

(※注1) 駒形と言うのは、稚児が首から掛けている馬の首の形をした木製の物である。この駒形を首に掛けて騎乗した時から綾戸国中神社の祭神の化身とみなされている。

八坂神社の神と同格の神の化身ですから、なんびとたりとも許されない騎乗のまま境内に入り、本殿にもそのまま乗りつける事が出来る(この参代の仕方は長刀鉾の「お稚児さん」にも許されていない)。平安時代末の「年中行事絵巻」にも駒形稚児が描かれているように、初期からその存在が確認されている。

(※注2) 上久世という八坂からは遠く離れた地から、祇園祭の重要な稚児が出るのはなぜであろうか。またその氏神である綾戸・国中神社と祇園社の関係はどのようなものであったのであろうか。
史料によれば、綾戸社は近世初期には「祇園駒之社」とも呼ばれ、現在の駒頭はもともと綾戸社と深い関係のあるものであり、また同時にこの駒頭をめぐる信仰が広く流布していたことが窺える。

また、近世の史料に「上久世駒形神人」の名が出てくることから、近世初頭には今日と同様に上久世の人々が祇園祭の神幸祭と還幸祭に奉仕していたことは確かであったようだ。

また平安時代末期に書かれたという『年中行事絵巻』の中に、駒頭を胸に抱き、馬に乗った稚児が祇園御霊会の御輿に供奉する姿が描かれていることから、少なくとも平安時代末期には、祇園会に駒形稚児らしき存在が関係していたがわかる。

Share
Posted in 日本神話の魅力, 神社の魅力, 祭りの魅力 | Leave a comment

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(七)

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(七)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、「駒形稚児」または「久世駒形稚児」

「お稚児さん」(※注1)(※注2)といえば山鉾巡行の「くじ取らず」である長刀鉾が、しめ縄切りの模様が全国ニュースに流れたりして有名であるが、祇園祭の本来の意味から言えば、神事に欠かせない「お稚児さん」は「久世駒形稚児」である。

あまり知られて無い「久世駒形稚児」であるが、こちらの「お稚児さん」は長刀鉾の「お稚児さん」より、さらに重要な意味を持つ。旧上久世村(現京都市南区上久世町)から祇園祭の神幸祭と還幸祭に各一名ずつ、二名が選ばれ、白馬に乗って神輿が三基あるうちの一基「中御座」の先導を努める(中御座の神輿の先導をする「お稚児さん」が「久世駒形稚児」である)。

長刀鉾の「お稚児さん」は十万石の大名と同じ「正五位少将」の位を授かる。俗に「お位もらい」と呼び神の使いとしての資格を得る儀式だ。これは山鉾巡行の際、高い場所から身分の高い人を見下ろすための免罪符という考え方もある。

ところが「社参の儀(お位もらい)」で八坂神社に参拝する長刀鉾の「お稚児さん」は馬から降りなければならないが、「久世駒形稚児」はまさに神の化身であるから、社参の際も決して馬から降りる事はない。ちなみに神社の境内は古来よりどんな身分の高い人であろうと騎乗が許されていなかった(「皇族下馬」)。

また、古文書によると「ご神幸の七月十七日に久世の稚児の到着なくば、ご神輿は八坂神社から一歩も動かすことがならぬ。もしこの駒故なくしてお滞りあるときは必ず疫病流行し人々多いに悩む」と記されてる。

(※注1) 今日の祇園祭では、稚児が出るのは長刀鉾と綾傘鉾、および「久世駒方稚児」だけだ。特に長刀鉾の稚児は有名であり、七月十三日の八坂神社への「社参の儀」によって、それまでは普通の男の子が「五位少将」、十万石の大名に相当する位を授かる。

長刀鉾の稚児は十七日の山鉾巡行で、四条通りに張られた注連縄を華麗な太刀さばきによって切るという大役を担っており、これは山鉾巡行の開始を告げる重要な儀礼として、毎年必ずテレビで放映される場面でもある。

(※注2) そもそも「稚児」とは、祭礼で神霊の依り代となる子ども意味し、神の代役としての重要な立場を担う存在である。稚児は本来は男女の区別はなく、女児が稚児を務める例もあるが、祇園祭では女人禁制が原則であり、特に山鉾巡行自体に女子の参加が禁じられているために、稚児も男児に限られている。

なお今日でこそ長刀鉾以外のすべての鉾が人形の稚児を乗せるようになったが、かつてはどの鉾にも生き稚児が乗っていた。それがやがて種々の理由から生き稚児を廃して代わりに人形を乗せるようになっていっただ。

その背景には、稚児は祭りに先立って相当期間、家族から離れて別火で炊いた食事をするなど、厳しい精進潔斎が求められ、また祭り当日は地面に直接足を触れさせないなどの特別な扱いを受けるため、希望者も減り、またその世話にも多大な労力と費用がかかることと、稚児が鉾から落ちて大怪我をしたりするなどの危険をともなうことなどの理由からだそうである。

Share
Posted in 日本神話の魅力, 神社の魅力, 祭りの魅力 | Leave a comment

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(六)

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(六)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、「神祭り」としての祇園祭、神幸祭と還幸祭

豪華絢爛な山鉾巡行(※注1)は、いうならば祇園祭の「表」の顔であり、人々はそこにこの祭りの華やかさと豪華さに魅了され、平安絵巻が繰り広げられたハレの空間に酔いしれる。

実は、これは八坂神社の神事ではなくて、各鉾町の町衆の祭りだ。八坂神社の祭りは別に、同時進行してるのである。メインは、神輿が八坂神社を出発する七月十七日の神幸祭と、還って来る七月二十四日の還幸祭だ。祇園祭は、約一月間かけて行われる長い祭りである。

祇園祭は、山鉾とそれを取り巻く華やかなイメージのため、本来の神事が見落とされてしまっている。山鉾巡行の興奮が醒めやらぬ七月十七日夕刻、三基の御輿が八坂神社を出て、四条寺町の御旅所まで氏子区域を回る、いわゆる御輿渡御が行なわれる。

七月十七日の神幸祭や七月二十四日の還幸祭は、「神祭り」としての祇園祭(本来の祇園祭)にとっては、山鉾巡行以上に重要な祭りであるはずなのだが、氏子以外の人たちにはほとんど意識されることなく、どちらかといえばひっそりと行なわれている。

ましてこの御輿の渡御に、上久世から一人の稚児が奉仕することを知る者は少ないようだ。この稚児は、木製の駒頭を胸に抱いていることから、古くから「駒形稚児」「久世駒形稚児」(※注2)と呼ばれてきた。これらは人々からはあまり省みられることなく続けられてきたもので、まさに祇園祭の「本来の部分」といえる。

(※注1) 御輿渡御や「馬上十二鉾」と離れ、鉾衆や作り山などの練り歩きは町衆の「イベント」として神事から独立した性格を持ち始めた。室町時代中期頃から、「山鉾巡行」と、祇園社の神の「御旅所」への渡御という神事は互いに独立していく。

このようにして古代の祇園会はすっかり姿を変えたが、疫神を慰めるために楽を囃したて、舞い踊るという行為とその意味は保たれ続ける。

初期の山鉾は小規模で人が乗るという形ではなかったため、囃子方や舞方は鉾や作り山と一緒に練り歩いたのだと思われる。やがて中世末期から近世初期にかけて山鉾は巨大化し、鉾には車がつき、囃子方も乗り込むようになり、現在に近い姿になった。その背景には、京都の商人が財力を持ちはじめたことにある。

(※注2) 七月十七日の山鉾巡行が終わった夕刻、八坂神社を出発する御輿渡御に、上久世から一人の稚児が奉仕することを知る人は少ないのではないだろうか?。

この稚児は木製の駒頭(馬の頭)を胸に抱いていることから、古くから「駒形稚児」とか「久世駒形稚児」と呼ばれてきた。この稚児は、旧上久世村の氏神である綾戸国中神社の御神体とされている木製の馬頭を胸に抱き、馬に乗って御輿の渡御に奉仕する。

十七日の朝、上久世では村人から「お駒さん」とよばれて崇拝されている御神体の駒頭が入った櫃を、神社からその年の稚児を出す家に運び、床の間に安置する。やがて稚児は父親と綾戸国中神社の神主とともに、かつてから「中宿」と定められている祇園花見小路の原了廓家に向う。そこで御神体ははじめて櫃から取り出される。

稚児はこの駒頭を首にかけ、中宿から騎馬で八坂神社に社参に向う。この時駒形稚児は騎馬のまま境内に入り、拝殿を三周して直接本殿に乗りつけるのだ。

十万石の大名の格式を持つといわれる長刀鉾の稚児でさえ、境内前で下馬して徒歩で本殿に参拝するのに(「皇族下馬」)、駒形稚児は騎馬のまま本殿に乗りつけるというのは、まさにこの稚児がそれ相応の位を持ち、また祇園祭において非常に重要な役割を担ってきたことを物語っているといえる。

Share
Posted in 日本神話の魅力, 神社の魅力, 祭りの魅力 | Leave a comment

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(五)

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(五)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、山鉾巡行は各鉾町の町衆の祭り八坂神社の神事は、神幸祭と還幸祭

祗園祭といえば、だれしもが四条通りが歩行者天国となり、街角を埋めつくす人たちでごったがえす宵山のどよめきと、総数三十二基の山鉾が都大路を練り歩く、豪華絢爛な山鉾巡行を思い出す。

また山鉾をきらびやかに飾る、舶来のタペストリーや国産で最高級の西陣織なども、見る者たちを魅了する。祭りの表舞台に登場する山鉾(※注1)や世界の芸術品は、祭りを豪華に、また華やかに飾っている(山鉾風流)(※注2)。

豪華絢爛な山鉾巡行が祇園祭と思っている人たちは、祇園祭は七月一日の吉符入りから、二十九日の神事済奉告祭まで(三十一日の疫神社・夏越祭)、約一ヵ月にわたって行なわれる祭礼であり、またこの祭りはもともと、都に疫病をもたらす荒ぶる霊魂を慰撫することを目的とした、いわゆる「御霊会」であることを知る人は少ないと思う。

元々、この祗園祭は「祗園御霊会(ぎおんごりょうえ)」(※注3)と呼ばれ、昔疫病が流行したりすると、それを起こすと思われてた疫神や御霊の退散を祈願して、祗園社(今の八坂神社)の神輿を担ぎ出し、二条の神泉苑まで練り歩いて、疫神退散の「御霊会」をしたのが始りだそうである。

ちなみにこの神輿を担ぎ出しのは、祗園社だけではなく、今宮神社でも疫病が流行ると神輿を出し、近く船岡山で「御霊会」をしたそうだ。地名から「紫野御霊会」と呼ばれていた。

(※注1) 祭りを厳かに演出するため、鎌型の鉾が朝廷より下された。これはやがて「馬上十二鉾」と呼ばれ、ひとつ数を増した鉾十三基と神馬五頭の姿に整う。鎌倉時代を通じて祇園祭は、三基の御輿と、「馬長」「渡物」「馬上十二鉾」などの行列が「御旅所」に渡御するという形をとり続けたようである(神輿渡御)。

鎌倉時代から室町時代の頃、庶民がこの「馬上十二鉾」を真似し始めた。彼らは奇抜な装いで練り歩いたり舞い踊ったりして、人気を集めたが、時代は南北朝の混乱期に入る。この間は、祭りの興奮が暴動に変わることを恐れた幕府の圧力により、祭りは淋しいものになってしまったようである。

また、貴族勢力の衰退により「馬長」などは姿を消した。しかし、祭りの主役が庶民へと変わり「鉾衆」は恒例化し、祇園祭の新しい形として定着していく。また同じ頃、伝説や物語のさまざまな情景や場面を再現した「作り山」も登場していく。そしてこの「鉾衆」と「作り山」が、現在の「山鉾」のルーツになるのである。

(※注2) 山鉾風流は、室町時代になって、当初からあった神輿渡御を中心とする神事に新たに追加された行事であった。その成立の背景については、京都の商工業に従事する都市民の成熟があったことが指摘されている。

すなわち、いわゆる「町衆」といわれるそうした都市民の自治的な動向の中で、その自主的な祭礼として山鉾が成立したというのである。

(※注3) 平安時代初期(九、十世紀頃)、京の都には幾度も疫病が流行した。医学の未発達な当時の人々は、それを疫神や祟り神の祟りだと考えた。

そこで、都のはずれで疫神にお経をあげたり、楽を演奏したりして慰め、町の外へ祓う儀式、「御霊会(ごりょうえ)」を行う。その頃の祇園は京の都の町外れにあたり、この「御霊会」がよく行われた。

やがて祇園には、疫神を祓う威力があるといわれる、牛頭天王(ごずてんのう)が祀られた。これが祇園社、現在の八坂神社になる。

Share
Posted in 日本神話の魅力, 神社の魅力, 祭りの魅力 | Leave a comment

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(四)

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(四)

◆◇◆京都祇園祭、豪華絢爛な一大ページェント

「祇園祭」は、七月一日の「吉符入り」にはじまり、三十一日の境内摂社「疫神社夏越祓」で幕を閉じるまで、一ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられる。

祭りのハイライトは十七日に行われる三十二基の山鉾巡行。これらの山鉾のうち二十九基は重要無形民族文化財に指定されている。

巡行は午前九時、四条烏丸から長刀鉾(なぎなたぼこ)を先頭に河原町通を経て御池通へ向う。 途中、「注連縄(しめなわ)切り」「くじ改め」や豪快な辻廻しなどで見せ場を作り、豪華絢爛な一大ページェントが繰り広げられる。

◆◇◆祇園祭の行事/日時 行事の内容(7月1日~ 31日)

1日~5日 吉符入:神事始の意味で各山鉾町において、町内関係者が本年の祇園祭に関する打ち合わせをする。

2日 くじ取式:17日の山鉾巡行の順番をくじによって決める式。その後、各山鉾町代表者が八坂神社に参拝し、祭礼の無事を祈願する。

10日 お迎え提灯:午後4時半~午後9時 午後4時半頃から神輿を迎えるため、趣向を凝らした各種の提灯を持って行列。

10日 神輿洗:午後8時 午後8時頃、神輿の3基のうち中御座の神輿をかつぎだし、四条大橋まで運び、鴨川の水で洗い清める。

10日~14日 鉾建・山建:各山鉾町では、巡行の山鉾が収蔵庫から出されて組み立てられる。

13日 稚児社参:午前11時 長刀鉾にのる稚児が、午前11時、八坂神社へ参り「お位」をもらう。

14日~16日 宵山(祇園囃子):どの山鉾も夜は提灯が幾十となく点灯され、祇園囃子がにぎやかに奏でられる。 また屏風飾りといって町内の家で、部屋に飾られた屏風等を見学することができるところもあります。

17日 山鉾巡行:午前9時 午前9時に四条烏丸を、32の山と鉾が出発します。

17日 神幸祭:午後4時 3基の神輿が午後4時頃から氏子町内を巡行して、四条御旅所にとどまる。

20日~22日 狂言奉納:八坂神社の能舞台で、午前10時、12時、午後6時、8時の1日4回、狂言の奉納が行われます。

24日 花傘巡行:午前10時 「後のまつり」の巡行が17日の山鉾巡行と合併したため、山鉾の古い形態を再現するねらいではじめられたもので、花傘の10余基をはじめ京都花街のきれいどころの踊り、鷺舞、六斎念仏、子供御輿、祇園ばやし、稚児など総勢千人の行列が続く。

24日 還幸祭:3基の神輿が午後5時頃四条の御旅所を出て、氏子町内をまわり、午後10時ごろ神社へ帰る。

28日 神輿洗:10日の神輿洗と同様、四条鴨川で洗い清め、午後8時ごろ神社へ帰る。

29日 神事済奉告祭(八坂神社):祇園祭の無事終了を報告し神恩に感謝。

31日 疫神社・夏越祭(八坂神 社内・疫神社):鳥居に茅の輪を設け、参拝者がこれをくぐって疫病を祓う。

Share
Posted in 日本神話の魅力, 神社の魅力, 祭りの魅力 | Leave a comment

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノオの謎(三)

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノオの謎(三)

◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、豪華絢爛な山鉾巡行による「祇園祭」

保元・平治・応仁・文明などの乱のたびに祭礼は一端途絶えるが、すでに町衆の手に支えられていた「祇園祭」は町衆の手(町の人々のパワーと画家や工人たちの協力で乗り越えて)によってすみやかに復興するとともに、従来にも増して創意や趣向がこらされ、内容外観ともにますます豪華絢爛なものとなっていく。

また、当時の町衆の信仰と勢力は次第に大きくなり、天文二年(一五三三)法華一揆に際して、室町幕府は神事停止をしたが、町衆の熱望により、“神事これなくとも、山鉾渡したし”と反抗した程である。(※注1)

「祇園祭」が、今みられるような形(山鉾巡行や山鉾風流など)(※注2)になり、豪華な飾りをつけるようになったのは、桃山時代から江戸時代にかけて貿易が盛んになり、町衆の繁栄により、舶来のタペストリーや国産で最高級の西陣織などが競って用いられるようになってからのことである(※注2)(※注3)。

このように、「祇園祭」は、千百年以上の伝統を誇り、京都の歴史とともに歩んできたともいえる。最近、市内中心部にある山鉾町の人口減少など悩みはあるが、昭和五十六年に蟷螂山、六十三年に四条傘鉾が再興されるなど祭りはますます賑やかになってきている。

(※注1) もともと「山・鉾」は、「祇園御霊会」の神輿渡御に付随した出し物であり、いうならば神輿の先導役というべきパレードであった。しかしやがて華やかな「山鉾」や「風流拍子物(ふりゅうはやしもの)(鉦・笛・太鼓などにあわせて踊る一種のにぎやかな歌舞)」は神輿以上に見物人たちの注目を集めるようになり、ますます華美になっていく。

「風流(ふりゅう)」とは、本来見る者たちを喜ばせ、あっと驚かせるような存在であったから、時とともに巨大化したり華美に変身してゆくのは当然のことでもある。

また本来は厳粛な神事としての神輿渡御の先触れとしてのパレードであったものが、やがて独立し、十四世紀後半には神輿が出なくても鉾や山の巡行だけは行われるという事態になっていったようだ。

その背景には、京都下京を中心とした町衆の成長と財力があったことはいうまでもない。「祇園社」の神事から独立した、町衆中心の「祇園祭」のルーツをここに見ることがでる。

(※注2) 十四世紀の南北朝時代に発生したと考えられる「山鉾」は、室町時代になると益々目立つ存在となり、一定の形式を具えるようになっていく。それは「鉾」・「山」・「傘」・「船」という多彩な形式である。現在の「祇園祭」に登場する三十二基の山鉾のうち、「傘鉾」は二基(綾傘鉾と四条傘鉾)、「船」は「船鉾」として残っている。

これらの原型は十五世紀のはじめ頃には完成していたのだ。そして「山鉾」はさらに巨大化し贅をつくした装いを纏いながら発展していきた。応仁の乱以前の山鉾を記した史料には、何と五十八基の山鉾の名が記されている。

その中のほとんどが「長刀ほこ(長刀鉾)」や「庭とりほこ(鶏鉾)」など、今日の山鉾と同じ名称が付けられており、今から約五百五十年前にはすでに今日の「祇園祭」と大して変わらぬ山鉾が都大路を巡行していたことが窺える。

(※注3) 江戸時代に何度か火災にみまわれた「山鉾」であるが、その都度構造的に脆い部分に改良が加えられ、強固な構造をもったものに変化し、組み建ての技術も向上していく。

そして文化文政期(十九世紀前半)、古代から近世にかけて大変化をとげた祇園祭と山鉾は、現在のような形態に完成された。それからの祇園祭は、豪華な「山鉾巡行」をハイライトとする、町衆の力なしには行えない祭りとして今日に続いている。

Share
Posted in 日本神話の魅力, 神社の魅力, 祭りの魅力 | Leave a comment

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二)

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、京の夏祭り、祇園祭のはじまり

祇園祭(祇園御霊会)は、京都三大祭の中でも、最も有名な祭りだ。例年、まだ梅雨のあけきらない七月中旬の蒸し暑い時に、十七日の山鉾巡行や、前日の宵山にも前々日の宵々山にまで、たくさんの人々が山鉾町あたりへ繰り出す。

この祭りは、京の人々に融け込んだ恒例の夏祭りだ(山鉾巡行が終わると、夏の本番という)。祇園祭(祇園御霊会)は、四条通りの東の突当たり、京都盆地の東の端に位置する八坂神社の恒例の祭典である。

その始まりは平安時代初期、貞観十一(八六九)年、京の都をはじめ日本各地に疫病(※注1)が流行したとき、その原因が疫神の祟りとされた。

多数の死人が出たため、日本の国の数である六十六本の鉾を立てて神泉苑(中京区御池通大宮)に送り、悪疫を封じ込める「御霊会」(疫病退散の祈願)を行ったのが始まり(※注2)とされている。はじめは、疫病流行の時だけ行われていたが、毎年六月七日と十四日に恒例化するようになる。

さらに、円融天皇の天延二年(九四六)、「祇園社(天神堂・感神院)」は「天台の別院」となり、都の中に「御旅所(おたびしょ)」を設け、祇園社の神様を、一定期間その「御旅所」にお迎えし自分達の町の悪い疫神や怨霊を追い払ってもらう御旅所祭礼(京中祭礼)=神幸祭・還幸祭(※注3)が行われる。

翌年、「祗園御霊会」は「官祭」になったとされる。その後、「祇園社」の興隆とともに、祇園祭は「祇園御霊会」または、略されて単に「祇園会」と呼ばれて発展するようになった。

そしてその後、保元・平治・応仁・文明などの乱のたびに祭礼は一端途絶えるが、すでに町衆の手に支えられていた「祇園祭」は町衆の手(町の人々のパワーと画家や工人たちの協力で乗り越えて)によってすみやかに復興するとともに、従来にも増して創意や趣向がこらされ、内容外観ともにますます豪華絢爛なものとなっていった。

また、当時の町衆の信仰と勢力は次第に大きくなり、天文二年(一五三三)法華一揆に際して、室町幕府は神事停止をしましたが、町衆の熱望により、“神事これなくとも、山鉾渡したし”と反抗した程です。

(※注1) 古代の人は、疫病を何ゆえに生ずると考えたのだろうか?。古代の人は漠然とではあるが「疫神」の仕業と考えていたようである。

また一方では、政争などにより非業の最期をとげた者の霊が、怨みを晴らすため(怨霊)、この世に疫病などの災いをもたらすと考えたのだ。このため、古くから「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭」「御霊会(ごりょうえ)」が行われていた。

(※注2) 貞観十一年に疫病が流行した際、卜部日良麻呂が、数年前の神仙苑の「御霊会」にヒントを得たのか、京の都の東方向の郊外にあたる八坂付近の人々を率いて、疫病をもたらす怨霊を神輿に封じて神仙苑へ送り込むような祭りを行った。

『祇園社本録縁録』には「貞観十一年(八六九年)、天下大疫の時、宝祚隆永・人民安全・疫病消除・鎮護のため、卜部日良麻呂(うらべひらまろ)、勅を奉じて、六月七日、六十六本の矛(長さ二丈ばかり)を建つ。同十四日、洛中の男児及び郊外の百姓を率いて神輿を神仙苑に送り、以て祭れり。これ祇園御霊会と号す。爾来、毎年六月七日と十四日、恒例と為す」とある。

(※注3)これは三基の御輿(牛頭天王と他二柱の神様)と、神官、稚児、巫女などの行列が「御旅所」に渡御(とぎょ)し留まった後、社に還るという形態であった。このような古い形態は、「神幸祭」と「還幸祭」として残されているが、稲荷祭や松尾祭にも残っている。今のような、山鉾巡行などなかった。

Share
Posted in 日本神話の魅力, 神社の魅力, 祭りの魅力 | Leave a comment

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(一)

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(一)

◆◇◆京都祇園祭(祗園御霊会)、日本三大祭のひとつ

「コンコンチキチン、コンチキチン」の音色(氏子たちが笛・太鼓・鉦で奏でる祇園囃子)を聞くと、いよいよ夏という感じだ。

夏の訪れを告げる京都の夏の風物詩・「祇園祭」は八坂神社(※注1)の祭りで、大阪の「天神祭」・東京の「神田祭」とともに、日本三大祭のひとつに上げられており、その歴史の長さ、またその豪華さ、祭事(神事・祭礼)が一ヶ月(七月一日~七月三十一日)にわたる大規模なものであることなどで広く知られている。

「祗園祭」はその昔「祗園御霊会(ぎおんごりょうえ)」といわれていた(後に「祗園御霊会」は“祇園会”と略され、一般に祇園祭とよばれるようになる)。この祭りは、京の人々に融け込んだ恒例の夏祭りである。

◆◇◆京都祇園祭(祗園御霊会)、日本と日本人の基層(原点と深層)-宗教民俗学の視点-

京都祇園祭(祗園御霊会)は、京都八坂神社のご本尊(スサノヲ命・須佐之男命・素盞嗚尊)をまつる例祭である。この日に参詣すると特別なご利益が与れるという。

「祇園祭」は七月一日(七月一日の「吉符入り」を皮切りに三十一日まで数々の祭礼が行なわれる)からおよそ一ヶ月間、京都東山区の八坂神社を中心に行われるが、祭りの山場は七月十七日の山鉾巡行と、その前夜の宵山だ。また家々では、秘蔵の屏風や家宝を玄間先に並ぺて祭りの雰囲気を盛り上げる。

「祇園祭」は、およそ千百年に及ぶ伝統を持つ日本を代表する最大級の祭りである。しかも、「祇園社」が全国に勧請され、同じような「祇園祭」が全国で行われている。

しかし、日本を代表する祭りでありながら、意外に知らない事が多いのだ。実は京都に住んでいる人でも、山や鉾がどのようなものか、祇園御霊会の意味や祇園祭の歴史について聞かれても、答えられない人も多い。

この機会(七月は祇園祭本番)に、「祇園祭」を通して見えてくる、日本と日本人の基層を宗教民俗学の視点から考察してみたいと思う。

たとえば、八坂郷と八坂氏、八坂神社の起源、祇園祭と八坂神社、祇園祭の歴史的変遷、祇園御霊会と牛頭天王(御霊会信仰の発生と成立)、牛頭天王とスサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)の習合、御旅所祭礼(京中祭礼)と地縁的共同社会、山鉾の成立と発展、山鉾巡行と京の町衆、山鉾風流、祇園祭と稚児、祭りの現代的意義など、いろいろと取り上げていきたい。

(※注1)八坂神社は、江戸時代まで「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたが、七世紀斉明天皇二年に開かれ、社殿は天智天皇の頃に造られたとされる説もあるが、貞観十八年に南都の僧円如が八坂の現在地に堂宇を建てたという説が有力である。

Share
Posted in 日本神話の魅力, 神社の魅力, 祭りの魅力 | Leave a comment

◆スサノヲ命(素戔嗚尊)と祇園祭(祗園御霊会)の謎(二)

◆スサノヲ命(素戔嗚尊)と祇園祭(祗園御霊会)の謎(二)

◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、御霊信仰と御霊会

御霊信仰(※注1)とは、非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、これを尉和してその祟りを免れ安穏を確保しようとする信仰だ。日本は古来より死霊はすべて畏怖の対象であった。

ことに怨みを抱いて死んだ霊は、その子孫に祀られることがなければ人々に祟りをなすと信じられていた。疫病や飢饉、そのたの天災があるとその原因の多くはそれらの怨霊や、祀られることのなかった亡霊の祟りとされていたのである。

古来から御霊信仰と思われるものは文献上に記されているが、一般的に盛んになったのは平安時代以後のことだ。特に、御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになった。

文献上の初見は『三代実録』貞観五年(八六三年)五月二十日条の記事にあるが、これは御霊会を朝廷が行なった記録であるが、民衆の間ではそれ以前から行なわれていたと考えられている。

当然、政治的失脚者の個人を怨霊として恐れたのはその政敵だった人たちであり、一般民衆がそのような怨霊の個性を認めていたかどうかは疑問である。

一般の御霊信仰は必ずしもそのように明白な特定の歴史的人格に結びつけることなく、むしろ一般にはなんらその実体の明らかならぬもの、知られざる怨霊に対する漠たる畏怖をもとに成立したものである(※注2)。

その具体的な霊格(祭神名)は多くは巫祝の託言や創唱によるものであったようである。有名な紫野今宮など(※注3)多くの御霊会は単に御霊という以外に何ら特定の祭神名を称することがなかったようだ。

御霊信仰は外来の信仰としての陰陽道や仏教の影響も少なくなく、特に仏教については亡霊追福を第一目的とする念仏信仰と御霊信仰とは互いに相結びついて中世以降の庶民信仰を強く色づけることになった。

御霊信仰は日本において人を神に祀るもっとも一般的なケースとして、神道の一特質を考えるうえに重視されるべきものと考えられる。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 御霊会とは、御霊を尉和遷却するために行なわれる法会や祭礼の汎称のことだ。文献の初見は『三代実録』貞観五年(八六三)五月二十日条の記事で、この日、疫癘防除のため勅命によって神泉苑で催された。『金光明経』や『般若心経』を講じ、舞楽や雑伎散楽が演ぜられ、縦覧をゆるされた市民とともに歓をつくしたとある。

(※注2) 御霊会はもともともっとも古い信仰に根ざし、ひろい民間習俗を背景とするものであっただけに、僧侶による読経講説よりも、木偶や神輿を作って民衆が賑やかな歌舞とともにこれを難波海に送って行くことが、むしろその祭礼の根幹をなしていた。正暦五年(九九四)年六月の船岡御霊会のことを記した『日本紀略』は特に「此非二朝議一起レ自二巷説一」と注している。

(※注3) 平安時代、疾疫や飢饉の頻発と相表裏して随時随所で民衆が相会して御霊会を行った。当時の文献によれば、手近なものだけでも紫野(今宮)・衣笠・花園・出雲寺・天安寺新造神社・西寺御霊堂・城南寺明神・熊野新宮御霊などを見つけることができる。中で有名なのが祇園・北野の両御霊会だ。

平安時代末期(院政期)ころ一応定着したその神輿迎えと神輿送りの形式並びに随従する馬長や風流田楽は、神社祭礼の一つの典型となった。それは日本古来の氏神祭祀が祈年・新嘗両祭を中心に春秋二季の祭りを中心としてきたのに対し、疾病流行の時季(旧暦五、六月)に、夏祭りとして行なわれるようになったのである。

Share
Posted in 日本神話の魅力, 神社の魅力, 祭りの魅力 | Leave a comment