◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十五)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、月神(月読神・月読神尊)を祀る葛野坐月読神社(3)

『山城国風土記』逸文には月読尊がアマテラス(天照大神)の勅(みことのり)を受けて「豊葦原の中つ国に降りて、保食神(うけもちのかみ)のもとに到りましき」とあります。この神話は『日本書紀』(神代巻)第十一の一書の月読尊が豊葦原の中つ国へ派遣される話です。月読尊は、『記・紀』神話では余り活躍しませんが、この神話では、アマテラス(天照大神)の命令を受けて中つ国に向かい、穀物神である保食神(うけもちのかみ)のもてなしを受けましたが、保食神が魚や狩りの獲物を口から吐き出して饗応したので、汚らわしいと怒って、ついに保食神を剣で惨殺してしまいます。ことの有様を知った天照大神は、月読尊は悪神であるといい、もう会わないとといって、ついには両神は「一日一夜、へだてはなれて住みたまふ」ことになったといいます。

どうして、この神話が『山城国風土記』に収載されたのでしょうか。それについては以下のような事情があったようです。それは『続日本紀』に大宝元年(701年)四月の勅(みことのり)に「山背国葛野郡の月読神・樺井神・木嶋神・波都賀志(はつかし)神などの神稲は、今より以降、中臣氏に給へ」とあります。この月読神は、『延喜式』に記す葛野坐月読神社の神のことで、『山城国風土記』が編纂されたころには、山城国にすでに月読神を祀る祠(神社)があったので、その縁起譚として月読尊の神話が収録されることになったようです。この月読尊は、『日本書紀』の顕宗天皇三年二月条に阿閇臣事代(あべのおみことしろ)が任那に使し、壱岐を通過した際、月神が人に著って託宣したことが、「『我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を鎔(あ)ひ造(いた)せる功有(ま)します。宜しく民地を以て我が月神に奉(つかまつ)れ。若(も)し請(こひ)の依(まま)に我に献らば。福慶あらむ』とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具(つぶさ)に奏(まう)す。奉るに歌荒樔田(うたあらすだ)を以てす(歌荒樔田は山背国葛野郡に在り)。壱岐県主の祖先押見宿禰、祠(まつり)に侍(つか)ふ」とあるように、壱岐から分祀(勧請)されました。

顕宗天皇三年(487年)が実年代でないにしても、葛野坐月読神社の月読神が壱岐から勧請されたものであることは確かなようです。壱岐には亀卜を行う卜部がいましたが、朝廷から重視された四ヶ国卜部(壱岐卜部、対馬卜部、奈良卜部、伊豆卜部)の一つが壱岐卜部です(壱岐のト占・亀ト、当時最新の思想と技術が畿内に初めて導入されたことを示しています。朝廷により招聘された壱岐のト術に優れた者はのちに卜部氏となり宮廷祭祀で中臣氏とともに従事します)。この壱岐卜部は山城国葛野とも密接な繋がりを持っていました(山城国葛野を開拓した秦氏がいたためでしょうか)。また、『山城国風土記』逸文に、葛野の賀茂社の祭り(賀茂祭)に壱岐卜部若日子が関係した伝承があるのも、そのことを表しています。壱岐の月神は本来、海人族に信奉されていた航海の神です。海を生活の基盤とする海人族にとって、月齢を読んで潮の干満を知りました。壱岐の海人族の月神の原初の姿が、内陸地に移されると農民生活に関わる農耕神へと変化していきます。『延喜式』には、伊勢神宮内宮の月読神社・月読荒魂神社、外宮の四所別宮の月夜見宮や丹波国桑田郡小川の月神社がみえます。これらの月読神(月夜見神)も海人族の奉斎した神であったようです。(※注1)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)月神を祀る神社は、大きく分けて三系統に分かれそうです。一つは伊勢神宮内宮の月読神社・月読荒魂神社、外宮の四所別宮の月夜見宮、山城国葛野郡の葛野坐月読神社、丹波国桑田郡小川の月神社、壱岐国壱岐郡の月読神社で、この月神(月読神)は、壱岐の古族(壱岐県主)によって勧請されたと考えられます。もう一つ、 山城国綴喜郡樺井の月神社(月読神社)は隼人によって勧請されたと考えられ、さらに出羽国飽海郡の月山神社(出羽三山のひとつとして修験道で有名な月山の頂にある)は、月読命が神仏習合時代には本地仏に阿弥陀如来が当てられ合わせて祀られていました。しかし本来、月山信仰は月の見える山の際(頂)に祭祀の場を設けた太陰信仰であったようです。

 

◆神社の魅力を伝えるWeb活用支援事業(2012年「古事記編纂1300年紀」事業)

・Webサイト 神社専門ホームページ制作会社「神社Web制作工房」
http://www.jinjaweb.com/
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・Blog 神社専門ホームページ制作会社「神社Web制作工房」
http://www.susanowo.com/
・関西テレビで放映されました。
http://www.ktv.co.jp/anchor/today/2011_01_28.html
・朝日新聞に掲載されました。
http://www.susanowo.com/archives/2126

 

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◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十四)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、月神(月読神・月読神尊)を祀る葛野坐月読神社(2)

松尾大社から山沿いの小道を南へ少し行くと、月神(月読神・月読尊・月読命)を祀る「葛野坐月読神社」(祭神は『旧事本紀』にいう天月読命)がひっそりと建っています。この神社は松尾大社の摂社ですが、およそ1500年前に京都(山城国)に鎮座したとされる古社です(はたして葛野坐月読神社の創建・顕宗三年=487年が実年代であったかはわかりません。また羽束師坐高御産日神社は対馬国か壱岐国から奉祭された考えられています。今は秦氏の氏神・松尾大社<創建は大宝元年=701年>の摂社となっており、歴代の祝などから秦氏と密接な関係であったようです)。社殿はけっして大きくなく、そこに管理人がいるわけでなく多少寂れた雰囲気です。

月読神社の創祀に関しては、『日本書紀』に記載があります。『日本書紀』の顕宗天皇三年二月条に、阿閇臣事代(あべのおみことしろ)が任那に使し、壱岐を通過した際、月神が人に著って託宣したことが、「『我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を鎔(あ)ひ造(いた)せる功有(ま)します。宜しく民地を以て我が月神に奉(つかまつ)れ。若(も)し請(こひ)の依(まま)に我に献らば。福慶あらむ』とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具(つぶさ)に奏(まう)す。奉るに歌荒樔田(うたあらすだ)を以てす(歌荒樔田は山背国葛野郡に在り)。壱岐県主の祖先押見宿禰、祠(まつり)に侍(つか)ふ」とあり、この月神は壱岐の月読神社の祭神とみられるのです(『日本書紀』頭注は「歌は葛野郡宇太村(後の平安京の造られた地)、荒樔は産(あ)るの他動詞で、神の誕生の意」)。

この月読神社は斎衡三年(856年)に、水害を恐れて松尾山南麓の現在の地に遷ったと伝えています。そして松尾大社が従一位に進んだ貞観元年(859年)には、月読神社神社は正二位に進み、さらに貞観十一年(869年)に従一位に、延喜六年(906年)には正一位勲二等を授かり、『延喜式』神名帳では名神大社(月次・新嘗)に列せられています。このように名社であるのですが、古くから松尾大社の摂社で、その管理は松尾大社が行ってきたといいます(社務の実権は摂社の月読神社の長官中臣系の伊岐使=松室氏が掌握していたとも)。しかし、略歴をみると創祀も祭祀者も異にしながら摂社とされて祀られているところから、秦氏の氏神・松尾大社との密接な関係にあったようです。月読神社は天文・暦教・卜占・航海神として崇められていたようです。ではなぜ海のない山城国に航海神が必要であったのでしょうか。

閑静な境内には、御船社(松尾大社の大祭に唐櫃を出しますが、これは月神が船に乗って渡御することを示し、月神が海人によって信仰されていた名残りです)と聖徳太子社(月読尊を尊崇した聖徳太子の徳を称えて祀ったものといわれています)があり、その隣には月延石と称する石(神功皇后が腹を撫でて安産された石を、月読尊の神託により舒明天皇が伊岐公乙等を筑紫に遣わして求めて奉納されたという伝説があります。神功皇后の安産石や月神の伝説は九州の神社に多く、築後国の高良大社の祭神・高良玉垂神は「月神の垂迹」とする説があります)があります。ただ、この安産石は斉明天皇が朝鮮半島遠征の際し、神功皇后ゆかりの月延石(月の満ち欠けには出産を早めたり延ばしたりする霊力があるとみられていました)を納めて勝利を祈願したことに由来したようです。

月読神社の鎮座する葛野郡には、月に関わる地名が嵐山・嵯峨野など平安京の西側に集中しています。葛野の大堰(おおい)の近くの「渡月橋」「桂川」「桂離宮」などがあり、桂は中国では月にある想像上の樹だとされ、転じて月を指すようになったようです。また、松尾大社の大祭・松尾祭(古くは葵祭と呼ばれた)は葵と桂で彩られます(賀茂祭・日吉祭でも彩られます)。こうした桂のイメージは、この葛野坐月読神社に由来し、月読神のシンボルが桂であったていたのでしょうか。ちなみに賀茂社のシンボルが葵であったようです(伴信友の『瀬見小河』に「かつらの枝は松尾の御やしろの御たくせんおはして、けふにさしそへたまひぬ、・・・さて桂を松尾神の託宣にかけていへるは、一傳なるべし、また此葵桂を日吉神祭にも用ふ、其は賀茂に因縁ありての事ときこえり・・・」)。

http://www.genbu.net/data/yamasiro/tukiyomi_title.htm

 

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◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十三)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、月神(月読神・月読神尊)を祀る葛野坐月読神社(1)

京都(山城国)には、月に関わる地名が、嵐山・嵯峨野など平安京の西側に集中しています(但し、木嶋坐天照御魂神社=このしまいますあまてるみたまじんじゃ=別名:蚕の社のように太陽信仰の遥拝所と見られる社もあります)。例えば、嵐山にある葛野の大堰(おおい)の近くに「渡月橋」があります。「渡月橋」とは月の世界に渡る橋という意味なのでしょうか(「渡月橋」という名前は亀山天皇が「くまなき月が渡る」のに似るという意味から名付けたといわれています)。すると、橋のこの辺りや向こうは月世界となり、玉兎が餅つきをしている幻想世界だということになります。この月橋の下を流れる川は、渡月橋の源流付近が大堰川で、保津峡あたりが保津川で、そして下流を桂川といい淀川に合流します(これらは、すべて河川法上、桂川に統一されています)。

大堰川は葛野の大堰に由来しますが、桂川の名前は、何に由来するのでしょうか。この河川名は、平安時代の紀貫之(きのつらゆき)以来の名称といわれ、川西一帯の桂の地名に由来しています。古代の『釈日本紀』に葛川とあり、葛野(かどの)郡という地名にちなんで、葛野川と呼ばれていたそうです。葛と桂は、相通じる意味があり、川辺にカヅラかカツラが茂っていたか、カヅラのツルのように流路がクネクネと蛇行していたのではないかともいわれています(「葛」は一般には蔓(つる)の「かずら」と考えられています。しかし「桂」の落葉種の高木とみる考えもあります)。また、『山城国風土記』逸文には「桂里」の記事があり、桂が神聖な樹木(月と桂には不死の生命力・霊力があり、桂の里とは再生の聖地)であることがわかります。

しかし「桂」といえば、京都では「桂離宮」が有名ですが、それがあるのは、やはり渡月橋の向こう側の桂川の西岸です。つまり、地上を離れた月世界にある宮、それが桂離宮なのです。すると、桂の意味も月と深く関係していそうです。桂の樹木は、高さ約30メートルほどのカツラ科の落葉高木で、春、葉に先立って紅色を帯びた細花を房状につけます(樹皮は灰色で、葉は卵心形。雌雄異株。果実は円柱形の袋果。材は軽く軟らかく加工が容易で、家具・彫刻・器具用になります)。桂にはもう一つ意味があります。それは、中国では、月にあるといわれる想像上の樹木(月の桂)のことなのです(『酉陽雑爼』に月の中に桂の木とガマガエルがいるといい、不死と桂の伝承を伝えています)。

このように古代、嵐山・嵯峨野など平安京の西側、特に渡月橋で渡った桂川の西側は月の世界とみられていたようなのです。月の世界、想像上の樹木(月の桂)とくると、そこには不老不死の思想、つまり中国の道教的な神仙思想の影響を窺うことが出来そうです。月の世界とは、不老不死の仙人が住むとされた理想郷であったのです(月で不死の薬草を搗く兎の説話は、西王母<せいおうぼ、西方の仙界・崑崙山に棲むという>の神話に属し、仙界の一つが月世界でした。蓬莱山なども)。月は新月と満月を繰り返し、一度消えて復活することから、古代人は不死を感じたのでしょう。『竹取物語』には、月に不死の薬があるとされています。かぐや姫は昇天の際、月世界に戻るため不死の薬を少し嘗め、残りを翁に渡し、翁は天皇に献上します。

このことからわかるように、桂川の辺りや西側は月世界なのです。きっと平安時代の宮廷貴族たちは、中秋の名月を眺めながら、はるかな月世界に思いを馳せ、そのイメージを桂川の西に再現したのかもしれません。この辺りは秦氏が開拓・開発した地域です(南部には高麗氏、北部には賀茂氏、東部には八坂の造の一族が住み着き、いわば京都の先住人達です)。また、酒の神様として有名な松尾大社がありますが、この社を創建したのは秦忌寸都理なる人物です(ちなみに、松尾大社・上賀茂神社・下鴨神社を合わせて「秦氏三所明神」とも呼びます)。さらに、渡月橋の上流にある葛野の大堰を建設したのは秦氏であり、平安京造営の中心になったのもこの一族です。秦氏は第15代・応神天皇の時代に、朝鮮半島から渡来してきたとされています。そのとき、秦氏一族(127県の人夫・3万~4万人といわれています)を率いていた首長の名を「弓月君(弓月王)」(融通王)といいます。弓月とは、弓張月、すなわち三日月を意味するのでしょうか。

 

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◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十二)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、大和国葛城郡の高天彦神社と葛城氏(3)

大和朝廷は国家統一の過程で、周辺の豪族を連携または平定し、領土を拡大していきました。また、葛城族と葛城の地もそうした過程を踏んで大和朝廷に組み込まれていったと思われます。葛城のは背後に聳える二つの山からの伏流水で豊かな水に恵まれたところで、古代より文明の発達する条件に恵まれた所であったようです。また、この地は朝鮮半島からの進んだ文化を取り入れやすい要地でもあり、朝鮮半島から北九州を経て、瀬戸内海を通り上陸して水越峠を通ると、そこは葛城の地です。これは葛城の葛城族に半島文化をもたらした、あるいは葛城族が辿り着いたルートの一つであったと思われます。葛城王朝を樹立したのは、葛城山下の平坦地(この地は鴨族が先住開拓していた土地であり、後に事代主神を祀る鴨族を政治的結合か服属したようです)でした。葛城王朝の崩壊の後、この王朝の最後の王であった開化天皇の異母弟、彦太忍信命の子孫から武内宿禰が出たとされ、彼の功績によって葛城氏を再興する機会を与えられ、その子の葛城襲津彦が葛城氏の本宗として地位を築き上げたとされています。しかし、この葛城氏の本宗も数代にして亡び、それに代わって一族の蘇我氏が後に台頭するのです。

葛城氏の系譜では、高天彦(高御産巣日神・高皇産霊神)を祖神としています。したがってこの神を祀る所が、またこの部族の居住地でもあったこと考えられます。金剛山(古代に葛城山と呼ばれる)の中腹に、葛城の五大社の高天彦神社(延喜の制では名神大社。月次・相嘗・新嘗)があります。この神社は高天原旧蹟という伝説があり、葛城王朝発祥の地として鳥越憲三郎から注目された所でもあります。この祭神が高天彦(高皇産霊神)です。ところで、高木神(高皇産霊神)から派遣されてきた八咫烏は、『日本書紀』では、神武天皇即位の後の論功行賞で、「頭八咫烏また賞に入る。その後裔は葛野(かつぬ)の主殿縣主部(とのもちあがたぬしべ)これなり」と出ています。大和国葛城地方にいた鴨氏(葛城氏と同族)は、葛城から山城の賀茂岡田から乙訓・葛野、更には現在の上賀茂神社の辺りへと移住したといいます。この時、人々の移動と共に丹塗矢や神武天皇と玉依姫の伝承、高木神の信仰や文化などが山城の地にもたらされたのかもしれません

実は、藤原氏の前身である中臣氏も高木神(高皇産霊神)の信仰を持っていました。葛城氏も前述のように高天彦(高皇産霊神)の信仰を持っていました。あるいは葛城氏(4~5世紀、葛城氏の勢力は大臣の外戚・大臣として大変なものであったようです。『記・紀』では同じく武内宿禰を始祖とする紀・平群・巨勢・蘇我氏がいます。また、蘇我稲目は没落した葛城氏の女と結婚しており、もうけた二人の娘を欽明天皇に差し出しています。王権の統一を回復した欽明天皇は、かつて大王たちに后妃を独占的に提供していた高貴なる葛城氏の血を欲していたようです)の神であったからこそか、『記・紀』編纂を主導する藤原氏は「高皇産霊神」を天皇家の最高神の一つとしたのです。それどころか、天孫降臨で高木神が果たす役割は、地上での藤原不比等そのものであったのです。もしかすると、高木神も藤原氏によって葛城氏からの吸収され取り込まれたのかも知れません。

藤原氏(中臣氏改め藤原氏となる)によって行われた記紀の編纂、「古典神道」の確立は「宗教改革」と呼んでよいほどの大変革でした。その目的は、天皇家と藤原氏に連なる神々を「天つ神」、豪族に連なる神々を「国つ神」に系譜づけることであったのです(『記・紀』の神統譜作りの目的は、天皇家と藤原氏のためでした)。天つ神の首領神がアマテラス(天照大神)であり、国つ神の首領神がスサノオ命(スサノヲ命・須佐之男命・素盞鳴神)とそれを継承したオオクニヌシ(大国主神)でした。藤原氏はこの「宗教改革」の中で、標的にしたのが葛城氏の神であったと考えられます。つまり、藤原氏によって葛城氏の神は宗旨や神格がが替えられ、一部の神は天皇家と藤原氏に連なる神々へ組み込まれていくのです。京都北東部の両賀茂社も藤原氏によって宗旨が替えられた可能性があります(祭神は賀茂別雷命が上賀茂、その母・玉依姫と祖父・賀茂建角身命が下鴨となっており、つまり、藤原不比等が娘を後宮に入れ、その産んだ息子を天皇位につけた姿と同じなのです)。

http://www.kamnavi.net/jm/eiko.htm

 

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◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十一)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、大和国葛城郡の高天彦神社と葛城氏(2)

強大な勢力を誇った葛城氏の故地・葛城地方には、葛木山(金剛山と葛城山を合わせて「葛木山」と呼んだ)が聳え、その裾野には台地状の地形が広々と広がります。葛木山の最高峰になる金剛山頂の真下には、高天(たかあま)という集落があり、この高天の台地は標高450メートルもあり、大和平野や吉野の山々が見渡せます。また背後にそびえる二つの山からの伏流水に恵まれ、水田もかなり広がっています。高天の台地は、『記・紀』神話の高天原だとする伝承が昔からあるのです。

高天の集落の南の外れにある高天彦神社は、参道の両脇に直径2メートルもある杉の老木が立ち並び、いかにも神さびた雰囲気を漂わせています。この高天彦神社は『延喜式』神名帳に記載された古社の一つで、とりわけ格式の高い名神大社に列せられています(南葛城地方にはこの他にも鴨都波神社・高鴨神社・葛木御歳神社・葛城一言主神社・葛木水分神社・葛木坐火雷神社の七社があります)。祭神は高天彦神(高皇産霊尊)です。この近くには弥生時代から古墳時代にかけての大集落遺跡・鴨都波遺跡があり、唐古・鍵遺跡(田原本町)と並ぶ大和の代表的な弥生時代の集落遺跡とされてきました。

またこの地には葛城族に服属したという鴨族の祀る神社が点在します。御所市の西の外れには鴨都波神社(下鴨社)があり、この神社は『延喜式』神名帳の「鴨都味波八重事代主命神社」にあたるとされ、祭神は田の神とされる事代主神です。後に鴨族は全国に散らばったとされ、「鴨」「加茂」「賀茂」などの地名は各地に伝わっています(山城の賀茂神社は八咫烏こと賀茂建角身命が移り住んだと『山城国風土記』は伝える)。この他にも鴨族ゆかりの神社が二社あり、高鴨神社(上鴨社)と葛木御歳神社(中鴨社)で、あわせて「鴨三社」と呼ばれ、『延喜式』神名帳に記載される名神大社で由緒と格式のある古社です(南葛城地方は特別に格の高い名神大社が集中)。

鳥越憲三郎氏の『神々と天皇の間―大和朝廷成立前夜』(朝日新聞社)によると、弥生時代中期ごろ、御所市南部の金剛山麓の丘陵地に、畑作と狩猟を中心に高天彦神(高皇産霊尊)を祀る葛城族が住んでいたそうです。やがてこの葛城族は、御所市北部の肥沃な平地にいた鴨族を服属させて水稲稲作を始め、「葛城王朝」を樹立、後に大和朝廷に成長していったとしています。そして、発祥の地の高天の台地を遠い記憶ある祖先の神々がいた場所と考え、「高天原」と呼んだとしています(神武天皇が即位した橿原宮は畝傍山の麓でなく御所市柏原の地であるとも、本間の岡は掖上のホホ間丘とも)。

このように、南葛城地方に格式の高い神社が多くあることや大和朝廷前夜に関わる伝承が集中していることなどから「葛城氏の本拠地で、三輪王朝に先行する葛城王朝の発祥地」としました。たしかに高天の台地や葛城古道は、欠史八代の宮居(葛城王朝の歴代大王の宮居)の伝承なども残されており、神話の里を彷彿とさせる雰囲気を漂わせています。また、葛城山の東麓には、葛城一言神社があります。一言の願いならば何でもかなえられる神とされる一言神を祭神とします。『記・紀』には、雄略天皇と一言神の伝承を伝えているところから、葛城地方を本拠とする勢力が無視のできない強大な力を持つ存在であったことを窺わせます。

『記・紀』によると、5世紀葛城地方にいた強大な勢力といえば、葛城氏です。この葛城氏は葛城襲津彦を始祖とし、葛城襲津彦は神功皇后のもとで活躍した伝説の武人・武内宿禰の子とされ、『日本書紀』に新羅を討つために派遣された人物として登場します。この記事には「沙至比跪を派遣した」とする『百済記』の記事を併載し、葛城襲津彦と沙至比跪は同一人物であることが分かります。このあたりの『日本書紀』の記述は伝説的な要素が強いようですが、葛城襲津彦の実在性が高いようです(葛城地方の御所市室の前方後円墳・宮山古墳<全長246メートル>は葛城襲津彦かその父の武内宿禰の墓ではないかとされ、こうした大王クラスの墳墓から葛城氏の勢力の大きさが分かります)。葛城氏は大和朝廷の皇后(磐之媛・黒媛・韓媛など)の家と大臣となり、応神紀十四・十六年に加羅から弓月の民=秦氏に近い渡来民を連れてきます(加羅=伽耶連邦を構成する金官国の王族であったとも?)。

http://www.ffortune.net/fortune/on

 

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◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、大和国葛城郡の高天彦神社と葛城氏(1)

大和国葛城地方の葛城氏(葛城族は崇神王朝=三輪王朝に先行する葛城王朝を築き、亡びた後も、平群・巨勢・蘇我の豪族として栄えたとされる。また葛城襲津彦=そつひこを祖とする葛城氏は大和朝廷の皇后の家と大臣となり、加羅=伽耶連邦を構成する金官国の王族であったとも? 応神紀十四・十六年に加羅から弓月の民=秦氏に近い渡来民を連れてくる)の故地は、奈良盆地南西部(現御所市周辺、葛城山と金剛山の山麓)です。この山麓には『延喜式』神名帳が定める最高の社格を持つ神社が五社あります。葛城の五社とは、鴨都味波八重事代主命神社(積波八重事代主命)、葛城坐一言主神社(事代主命)、高天彦(たかまひこ)神社(高皇産霊神)、高鴨阿治須岐託彦根命神社(味スキ高彦根神)、葛城坐火雷神社(火雷大神)です。

また「葛城」の地名については、諸説がありますが「葛」は一般には蔓(つる)の「かずら」と考えられています。しかし「桂」の落葉種の高木とみる考えもあります。すると山城国葛野郡に「桂」という地名があることとも関係してきそうです。また葛城地方の「高城」も「高木」とも考えられそうです。そうしたことから、「葛城」とは「葛城の高宮」つまり「高城=高地の砦(高宮・宮城、国見の場・祭場)=高木」とも解釈できそうです(葛城山は葛城氏にとって御諸山であり聖地であったのです)。すると「葛城の神」とは「高木の神」であり、「高木の神」といえば最高の皇祖神である「高御産巣日神・高皇産霊神」ということになります。

古くから、金剛山(高天山、古くは金剛山と葛城山を合わせて葛木山と呼んだ)の山麓の「高天の台地」(付近一帯は高天の地名が数多く残ります)といい、神々のいます「高天原」とも呼ばれていました(葛城の地主神・高天彦=たかまひこは葛木山の神霊)。この地(北窪・南窪)には、弥生時代中期には葛城氏の繋がる古族・葛城族は住んでいたといいます。水稲農耕を営み始めた葛城族は、葛城川流域の鴨族(修験道の祖とされる役小角も鴨族の出です)と連合して部族国家を形成したようです。一説には、崇神王朝(三輪王朝)の先行する王朝として葛城王朝が在ったとする説があります。こうした説によると、神武天皇から開化天皇に至る、九代で滅びたとされまするが、しかし武内宿禰によって復興し、大臣は葛城一族が独占して平群・巨勢・蘇我氏へと世襲されたと考えます。葛城の五社は葛城族の祖神を奉斎することから、『延喜式』神名帳が定める最高の社格を持つ古社なのです。

この地の伝承では、天孫降臨の舞台は九州ではなくこの地・葛城だったともいわれれています。この「高天の台地」に勢力を持っていた葛城一族が、さらに奈良盆地へと下り勢力を広げていったことが、後に天孫降臨として伝えられたというものです。また鳥越憲三郎氏などの葛城王朝説(『神々と天皇の間 – 大和朝廷成立の前夜』 )では、神武天皇と欠史八代とされる開化天皇までの各天皇(大王)を実在とし、欠史八代の天皇(大王)の事跡を初代神武天皇に集約したとしています。さらに橿原の宮についても、現在の橿原神宮ではなく、御所市柏原にある神武天皇社という小さな神社が当てられています。すると、葛城王朝にとっての大王家の祖神とは、「高天彦(たかまひこ)」いわゆる「高御産巣日神・高皇産霊神」であったようです。(※注1)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)葛木山(現在の金剛山と葛城山)は奈良盆地西に聳える神奈備山です。そこは高天という集落があり、『記・紀』神話の「高天原」だとする伝承があります(葛城地方には鴨氏・尾張氏がいました)。もしかすると、磐余彦の東遷(神武東征)は高木神(高御産巣日神)の信仰をこの地に持ち込んだのでしょうか。また高木神の信仰からか、後ちに鴨氏は「高鴨」、尾張氏は「高尾張」と呼ばれます。「神武東征説話」による神武天皇の事蹟とされる出来事や欠史八代の婚姻関係を考えると、葛城地方、磯城地方、さらには北部・物部氏との政治連合あるいは武力制圧が急速に進んだものと見ることができます。このとき、敗退した尾張氏と物部氏の一部が東海の尾張地方に向かい、その地に天火明命を祖神とする勢力圏を作り上げたとも考えられるのです。

http://www.ffortune.net/fortu

 

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◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(九)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、対馬国下県郡の高御魂神社と対馬国上県郡の神御魂神社

『日本書紀』顕宗天皇三年四月五日条の「日神、人に著りて、阿閉臣事代に謂りて曰はく・・・、対馬下県直、祠に侍ふ」の記事は対馬の高御魂神社とも関連します。この豆酘(つつ)の里に鎮座する高御魂神社は下県郡式内社筆頭の名神大社であり、当地の弥生遺跡からは朝鮮半島産の石器・土器が出土し、また古墳時代後期には対馬までも有数の古墳があり、下県直の本拠地と見られています。なお当地には天神多久頭(たくずたま)神社と、国史所見の雷神に擬せられる雷神社が鎮座し、対馬固有の信仰として有名な天道祭祀の中心地で、亀占の神事や、赤米の穀霊を祀る行事など、貴重な習俗が伝承されています。

また、対馬の上県の天道祭祀の中心であった佐護の里には、天神多久頭神社と神御魂神社(俗称は女房神)があり、この女房神のご神体は、胸に日輪を抱いた女神像です。女房神というのは神妻のことで、この姿からは、日光に感じて妊ったという処女の神話が窺え、日神信仰を見ることが出来ます(古代、稲が日に感光し米が生じると信じられ、高御産巣日神は稲に日をむすぶ神として農耕生産の神でした)。ムスビは、産霊・産日と表されるように、神霊を産(む)す働きが秘められていて、高皇霊・神皇産霊(高御産巣日・神産巣日)の二神は、『記・紀』神話における至高の創造神とされています。この二神は宮中祭祀では高御産巣日神・神御産巣日神とあります。また出雲の神魂命(神魂神社)も本来こうした神であり、海人(海を生活の基盤とする倭人)が対馬海流でもたらされたのかもしれません。

『古事記』の冒頭に、「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天御中主神、次に高御産巣日神、神産巣日神・・・」とあり、また『日本書紀』の神代七代には「高皇産霊尊、神皇産霊尊」とあり、また天孫降臨の段にも見えます。その後、前述した顕宗天皇三年の条に、古代史の謎を秘めた大変に重要な記述が見えます。それは阿閉臣事代が、朝廷により任那に使し、対馬を通過した際、日神(阿麻テ留神社の天日神=天照魂、高御魂の孫裔)が人に憑いて託宣をしたので、高皇産霊神に大和国の磐余の田を献じて、その祠に対馬下県直が侍えさせたとしています。これは、対馬に祀られていた高御魂が中央に遷祀され、その祀官として対馬の古族が出仕したとも読めるのです。

従来、「天(あま)」は天上や海上を表す言葉とされてきましたが、日本列島と朝鮮半島の海峡の島々のことではとする説もあります。皇室神話の天皇が日神の神裔とする系譜は、この対馬の日神の系譜に近く、もしかすると、朝鮮半島南岸と九州北岸の海を生活拠点としていた海人(倭人・倭族、日本海と瀬戸内海沿いに拡がっていくルート)が、中国・朝鮮半島の信仰や文化を中継し宮廷祭祀などを伝えたのかもしれません(海人には大きく分けてもう一派があります。ポリネシア、台湾、琉球列島伝いに南九州に至り、さらに南四国、紀伊半島を経て、房総半島へと伸びる太平洋岸・黒潮ルート)。

特に、対馬と壱岐の『延喜式』神名帳に記載されたいわゆる式内社の数は、対馬には29座(うち名神大6座)、壱岐には24座(うち名神大7座)もあります。しかも、『記・紀』の冒頭に登場する造化三神の高御産巣日神と神産巣日神、天照神である天照魂(天日神)、三貴子の一柱・月読命、和多都美神社の豊玉毘賣、和多都美御子神社の鵜葺草葺不合命、住吉神社の住吉三神など、『記・紀』神話に登場する神々を祀る神社が多く存在するのです。もしかすると、この海人が中継し継承してきた神話や信仰が宮廷祭祀に取り込まれてゆき、後に天皇制律令国家を支える『記・紀』神話・神祇神道の神話の元ととなったものとも考えられるのです。では、誰が『記・紀』神話にこうした神々を持ち込んだのでしょうか。壱岐と対馬は、実は亀卜を職とする人々(卜部)の島でした。この卜部の祭祀を取り込んだのが中臣氏(のちの藤原氏)であったのです(6世紀後半の物部氏没落のころ、蘇我氏政権の中で、それまで物部氏所管であった大王家祭祀の実権を手中に収める)。

http://www.genbu.net/zatu/zatu003.htm

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◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(八)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、大和国十市郡の目原坐高御魂神社と大和国添上郡に宇奈太理坐高御魂神社

大和国に高皇産霊神を祀る神社があったといいます。『延喜式』神名帳には高皇産霊神を祀る神社として、大和十市郡に目原坐高御魂神社と大和国添上郡に宇奈太理坐高御魂神社(桜梅天神)の名がみえますが、大和十市郡に目原坐高御魂神社については現在地は不明です。候補神社は次の三社です。(1)天満神社「高御魂神、神産日神、菅原道眞 合 子安大神」(橿原市太田市町225) 、(2)耳成山口神社「大山祇命、高皇産霊神」(橿原市木原町490) 、(3)山之坊山口神社 「大山祇命」(橿原市山之坊町304)。

目原坐高御魂神社は、『日本書紀』顕宗天皇三年四月五日の条に「日神、人に著りて、阿閉臣事代に謂りて曰はく、『磐余の田を以て、我が祖高皇産霊に献れ』とのたまふ。事代、便ち奉す。神の乞の依に田十四町を献る。対馬下県直、祠に侍ふ」とみえる高皇産霊神の社で(『日本書紀通釈』)、天平二年(730年)神戸の租稲271束のうち4束が祭神料にあてられ(『大倭国正税帳』)、大同元年(806年)には「目原二神」に大和国内で神封が寄せられました(『新抄格勅符抄』)。天安三年(859年)一月二七日、従五位下より従五位上に昇叙されています(『三代実録』)。なお『五郡神社記』では式内目原坐高御魂神社は木原村(現橿原市)にあり、高皇産霊神・天万栲幡姫を祀るとしています。

『記・紀』神話では、天照大神の誕生前に登場する造化三神の一神が高皇産霊神です。『延喜式』神名帳によると、高皇産霊神を祀る神社が四社あります。大和に二社(十市郡に目原坐高御魂神社、添上郡に宇奈太理坐高御魂神社)、山城国に一社(乙訓郡の羽束師坐高御産日神社)。もう一つは対馬(下県郡の高御魂神社)です。このうち、大和国十市郡に目原坐高御魂神社は対馬から勧請されたことだ分かっていますが、添上郡に宇奈太理坐高御魂神社はよく分かりません。また山城国乙訓郡の羽束師坐高御産日神社ははっきりしていませんが、同じ山城国葛野郡の葛野坐月読神社が壱岐から勧請していることから、壱岐か対馬から勧請されたと考えられています。

『日本書紀』持統紀六年(692年)五月の条に「・・・・幣を四所の、伊勢・大倭・住吉・紀伊の大神に奉らしむ。告すに新宮のことを以てす」とあり、さらに続けて「新羅の調」を「五つの社、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足に奉る」とあります。四つの神社に新しく社殿を建て、さらに十二月の条に新羅からの貴重な品々を、この四社の他に菟名足の神社の高皇産霊の神に奉納したとしています。『日本書紀』の天武紀や持統紀は実際の記録にもとづいていますから、この五社の特別扱いは異様と考えられます。なかでも菟名足(うなたり)は資料に全然出てこない神社ですが、宇奈太理坐高御魂神社と考えられます。それが新羅の貢物献上のおりに、わざわざこの社を祀るのは、対馬・壱岐や新羅に関係していると考えられるのです。(※注1)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)奈良時代初め、中臣氏の後身である藤原氏(中臣氏改め藤原氏となる)によって、『記・紀』の編纂と「古典神道」の確立、すなわち「宗教改革」と呼んでよいほどの大変革が行われました。その目的は、天皇家と藤原氏に連なる神々を「天つ神(天津神)」、豪族に連なる神々を「国つ神(国津神)」に系譜づけることであったのです(『記・紀』の神統譜作りの目的は、天皇家と藤原氏のためでした)。天つ神の首領神がアマテラス(天照大神)であり、国つ神の首領神がスサノオ命(スサノヲ命・須佐之男命・素盞鳴神)とそれを継承したオオクニヌシ(大国主神)です。つまり、天津神のグループというのは高天原の神々で、国津神のグループというのはもともと吉野の国樔みたいな土着の神々のことであり、天津神の天照大神は皇室の祖先神になるわけです。その後の平安時代初め、『新撰姓氏録』で、神別=神々の子孫、皇別=皇室の出、諸蕃=外来氏族と分類されました。さらに『記・紀』神話に現れた諸神の後裔と称する氏族は神別と呼ばれ、天孫、天神、地祇に分類されました。

http://www.genbu.net/data/yamato/unatari_title.htm http://www.genbu.ne

 

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◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(七)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、京都盆地南西部の古社・高御産日神を祀る羽束師神社(2)

羽束師神社で注目されるのは、「羽束師に坐す高御産日神社」とされて高御産日神を社名とすることです。高御産日神とは『古事記』(上巻)に記すいわゆる造化三神の一神である高御産巣日神であり、『日本書紀』では高皇産霊尊と表記します。『古事記』では別に「高木神」とも称されていますが、『古事記』『日本書紀』の神話では高天原における主宰神として強く意識されていた神です。たとえば、『古事記』にあっては、葦原中国の平定や天孫降臨を命ずる神はアマテラス(天照大御神)と高御産巣日神(高木神)であり、『日本書紀』(本文および第四・第六の一書)では高皇産霊尊とされています。

皇祖神としての神格化をみた高御産巣日神にゆかりを持つ社は、『延喜式』においても限られており、他には大和国添上郡の宇奈太理坐高御魂神社、大和国十市郡の目原坐高御魂神社、対馬国下県郡の高御魂神社などといったように少ないのです。なぜ乙訓の地域に高御産日神が祭祀されるようになったのか。その間の事情は定かではありませんが、高御産日神は少なくとも大宝元年四月の勅が出されるまでは、「波都賀志神」として祭祀されており、大和王権と羽束師の地域が早くから深い関わりを持っていたことを示唆しています。

『新抄格勅符抄』の大同元年の「牒」には、山城国より神戸(4戸)をあてられています。『延喜式』にみえる宮中36座のなかには御巫(みかんなぎ)の祀る神八座があり、その宮中八神殿の一神がやはり高御産日神です。『延喜式』巻三十九の内膳司には園神祭十四座があり、そのなかに長岡園三座が見られているのも見逃せません。宮廷との繋がりを持った羽束志(波都賀志)の神が高御産日神を主神とするのには、このような背景があったようです。そして『三代実録』の貞観元年(859年)九月八日の条に見出されるように、「風雨を祈る為に」遣使奉幣される風雨の神としても崇められていました。今も残る羽束師の社叢に、いにしえの古社の面影を忍ばせます。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区羽束師志水町)の御祭神は高皇産霊神と神皇産霊神で、雄略天皇二十一年の御鎮座と『羽束師社旧記』は伝えています。桂川と諸河川の合流するこの地は古くから農耕が行われ、水上交通の要地と相まって羽束郷と称され開けてきました。平安時代には祈雨の神と崇められ、潤雨・風鎮の祭りが行われました。『延喜式』にあっては大社に列せられ、月次祭・新嘗祭の幣に預かり、中世・近世になっても羽束石祭の賑わいは近郷唯一であったそうです。二基の神輿渡御は広い地域にわたったと『大乗院寺社雑事記』『都鄙祭事記』は語り伝えています。豊かな社叢は「羽束師の杜」の名で古来より親しまれ、祭礼行事は羽束師祭(5月中旬、羽束師の舞・こども神輿)、 例祭(10月中旬、舞楽が奉納される。) が行われます。

(※注2)祭神は高皇産霊神と神皇産霊神は、『記・紀』神話の筆頭に出てくる独り神で、化成霊能の三神のうちの二神です。この神は、のちの氏族の始祖神になっていますが、このような大始祖神を治水の神でもなく穀物の神でもない神として、羽束師のような水害の多い地(桂川の洪水が多発した地)に祀ったところに、羽束師郷の特色があります。羽束師坐高御産日神社を中心にする羽束師遺跡では、弥生後期から古墳時代の遺構が発見されていますから、古代桂川の自然堤防を利用して水と暮らした歴史のある土地であったことが分かります。

(※注3)羽束師神社(伏見区羽束師志水町)は、桂川西方の平地に鎮座します(以前に下鴨神社の神職の方から聞いた、京都で最も古い羽束師神社と大歳神社が気になっていました)。付近は『和名抄』記載の羽束(はつかし)郷の地で、天平勝宝元年(749年)十一月三日付の正倉院文書の奴婢帳に「山背国羽束里」とみえています。社叢は古くから「羽束師の森」として歌枕にあげられ、延喜十三(913年)の亭子院歌合には「はつかしの森の僅かに見しものをなど夏草の繁き思いぞ」と詠われています。現在も境内には樟の大木などが繁り、昔を偲ばせますが、社殿は衰微して盛時の面影はありません。

http://www.kamnavi.net/yamasiro/hatukasi.htm

 

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◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(六)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、京都盆地南西部の古社・高御産日神を祀る羽束師神社(1)

京都盆地南西部の式内社の祭神で 、古文献にいち早く登場する確実な例は、『続日本紀』の大宝元年(701年)四月三日の条にみえる波都賀志神(はつかしのかみ)であり、ついで大宝二年七月八日の条に記す乙訓郡の火雷神である。

波都賀志神(はつかしのかみ)については、大宝元年四月三日の勅に「山背国葛野郡月読神、樺井神、木嶋神、波都賀志神らの神稲は、今より以降、中臣氏に給へ」とあるのがそれであり、乙訓郡の火雷神(石作氏・六人部氏らの奉斎した神)については、大宝二年七月八日の条に「山背国の乙訓郡に在る火雷神、旱(ひでり)ごとに雨を祈るに、頻(しきり)に微験あり、冝く大幣及び月次の幣例に入るべし」と記述されているのがそれである。

まず波都賀志神(羽束師神、はつかしのかみ)の例からながめてみよう。大宝元年四月三日の勅にいうところの葛野郡月読神とは、『延喜式』にいう「葛野に坐す月読神社」であり(葛野郡)、樺井神とは『延喜式』の「樺井月読神社」であり(綴喜郡)、木嶋とはやはり『延喜式』にみえる「木嶋に坐す天照御魂神社」である(葛野郡)。

乙訓に関係があるのは波都賀志神であり、『延喜式』が乙訓郡内の大社として記す「羽束師に坐す高御産日神社」がそれである。

波都賀志神の「波都賀志」は、天平勝宝元年(749年)十一月三日付の『東大寺奴婢帳』(正倉院文書)に「羽束里」とみえるように「羽束」と書き(『新抄格勅符抄』にも「羽束神」とみえる)、また『三代実録』の貞観元年(859年)九月八日の条に「羽束志神」とあるように「羽束志」とも記した。『延喜式』では「羽束師に坐す高御産日神社」のほか「羽束志薗」(内繕司)がみえる。

長元二年(1029年)二月二十二日付の大法師深幸解案(『愚味記』嘉応二年裏文書)には「乙訓郡羽津加志下村」とあって、「羽津加志」となっている。『和名類聚抄』にいわれる「羽束郷」の神である。

羽束師神社(羽束師に坐す高御産日神社、京都市伏見区羽束師志水町に鎮座)の前身が、『続日本紀』の大宝元年四月三日の勅にみえる「波都賀志神」にほかならない。

この勅によって、「波都賀志神」(羽束師坐高御産日神社)は、大宝元年四月以降に奉斎のされていた神であったことが明らかとなる。

「羽束石社神主」であった古河為猛が文政十年(1827年)八月に著した『羽束師社旧記』によれば雄略天皇二十一年四月の鎮座とし、天智天皇四年(665年)、長岡遷都のあった延暦三年にそれぞれ再建されたと伝えている。

祭神は「高皇産霊神(たかみむすび)」を主神とし、相殿の神として「神皇産霊神(かみむすび)」を祀る。『羽束師社旧記』では摂社11社を大同三年(808年)斎部広成(忌部広成、いんべひろなり)の奏聞によって勧請したという。(※注1)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 『延喜式』に記載されている乙訓郡の神々は19座(大社5座、小社14座)となっている。名神大社は羽束師神社(はつかし、羽束師に坐す高御産日神社、高御産日神)、火雷神社(ほのいかづち、乙訓に坐す火雷神社、火雷神)、大歳神社(おおとし、大歳大神)、小倉神社(おぐら、武甕槌神)、酒解神社(さかとけ、玉手より祭り来たる酒解神社、橘氏の先祖神・酒解神、大山祇神)の5座であり、いずれもが神祇官から祈年祭のほかに月次・新嘗祭の幣帛をも供進された。

そして與杼神社(よど、高皇産霊神)、大井神社(おおい、大綾津日神・大直日神・神直日神)、石作神社(いしつくり、石作神)、走田神社(はしりだ、天児屋根命)、御谷神社(みたに、天児屋根命)、国中神社(くなか・くになか、素盞嗚神、祇園祭で駒形稚児供奉)、向神社(むかへ・むかふ、向日神)、茨田神社(まんた、猿田彦大神)、石井神社(いわい、磐裂神)、神川神社(かんかわ、底筒男命・中筒男命・上筒男命)、久何神社(こが、建角身命)、簀原神社(すはら、大己貴命)、入野神社(いりぬ、天児屋根命)、神足神社(かんたり・かうだに、天神立命)、の14座が小社とされており、祈年祭に神祇官から幣帛を受けた。

 

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